神学大全 第一部 第六項 この教えは智慧であるか
今度は聖教は智慧 sapientiaであるかが問題になるみたいなのだが、この智慧 sapientia?と学/知 scientiaの違いがまったくわからない。聖教は学、scientiaであることは「神学大全 第一問 第二項 聖教は学であるか」ですでに論じてあるので、学と智慧が同じであるならこの項は余計。逆に言うとこの二つは違うとトマスは言ってるというわけなのだが、じゃあ、何が違うのか。訳註によるとこの話は第57問を参照せよとのことなので、そこまで引っ張る話ではあるが、ここからだけでもわかることを以下に列挙しておく。 聖教は学であるか
この教えは智慧であるか
まず、聖教という対象について言われるものが「学」であり、その聖教の中の「教え」について言われるものが智慧だという点が違ってる。だから何なのかと言われてもまったくわからないが、まずはそうだと言える。
次にここでは智慧について若干の説明がある。
この教えこそ、人間のあらゆる智慧のうちにあって何ものにもまして智慧 sapientia である。 つまり、智慧といっても決して何らか或る分野におけるそれではなく、無条件的な意味におけるそれなのである。けだし、智者の本領は秩序づけ判断するにあり、判断とは、然るに、高次の因を通じてその下位にあるところのことがらについて行われるものなるがゆえに、それぞれの分野において、その最高の因を視野に持つひとが 、その道の智 者と呼ばれる。例えば、建築という分野にあっては、家の姿を構想する工人がこの道の智者と呼ばれるのであり、彼はまた、石を切ったり漆喰を用意したりする下級の工人たちから区別して特に建築家 architector と呼ばれる。
智慧を持つ人のことを智者と言い、智者の「本領」は秩序づけ判断することなのだから、智慧とは秩序づける、判断するときに使うものだということがまずは言える。学/知scientiaは違うのか?と思うが、ここではそういう疑問は禁じておく。あとまわし。